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執筆者の写真平岡ジョイフルチャペル

9/15 明治期札幌の女性宣教師と子どもの教育〜サラ・スミスとクララ・ロースの場合〜

平岡ジョイフルチャペル 聖書講話   2024年9月15日(日)

聖書:旧約聖書 箴言1章1〜7節

講話:「明治期札幌の女性宣教師と子どもの教育

〜サラ・スミスとクララ・ロースの場合〜」

                          話者 三上節子


 

序章

本日は「明治期札幌の女性宣教師と子どもの教育」と題してお話したいと思います。このタイトルを選んだ理由ですが、私が新渡戸稲造研究家として、新渡戸が札幌農学校の教授だった頃(1891年3月〜97年9月)、札幌市中央区北3条西1丁目の教授用官舎の隣に1894年スミス女学校が移転したのですが、彼はその学校の生徒たち、先生たちとどのような交流をしたかを調べていくなかでそのテーマが興味深く思われてきたわけです。

 北星女学校は最初スミス女学校と名付けられ、北海道で2番目に古い中高一貫の女学校でした。一番古い女学校はメリマン・ハリス宣教師夫人のフローラが函館で1874年に始めた女子の私塾「日々学校」を発展させて、1882年にカロライン・ライトの多大な資金援助を得て建てたカロライン・ライト・メモリアル女学校です。1885年に遺愛女学校と改名します。この学校は関東以北で一番古いミッションスクールの女学校です。さて、スミス女学校創設者サラ・C・スミス[1]はどのようにしてスミス女学校を作り上げていったのでしょうか。ここでその前に、明治期に日本各地に誕生したキリスト教宣教師によるキリスト教主義学校設立の経緯について少し述べたいと思います。

そもそも江戸時代は鎖国制度が敷かれ、外国人が日本に来ることも、日本人が外国に行くことも禁止され、またキリシタン禁令という法律でキリスト教が日本に入ってくることが禁止されていました。ところが、江戸末期から和親条約や修好通商条約締結により外国との貿易が始まり、外国人が外国人居留地に住むことが許されて、そこに外国人のためのキリスト教の教会が建てられ、宣教師や牧師もやってきました。また日本人のためにその周辺に学校を作ることも許されるようになったのです。どうしてキリスト教を基礎に置く学校の建設が許されたかといいますと、日本政府が日本人は外国の文化伝統や最新の科学知識技術を学んで外国と対等に立ち振る舞う必要があると痛切に感じたからでしょう。

 ちょうどその頃、アメリカやヨーロッパでは、古い中世の封建制度がなくなり、宗教改革、市民革命、産業革命により市民一人一人が自分の意志を主張できるようになり、また特にアメリカではキリスト教の大衆伝道が盛んに行われ、教会に通う人々が多くなり、教会の活動を通して、困っている人を助けようという人道主義、平等主義、男女差別撤廃、子どもの教育権の充実が盛んに叫ばれ、実践に移されてきたのです。そしてキリスト教宣教と並行して人道と教育の環境が劣悪な国々に、宣教団体が教育宣教師を派遣して支援する仕組みができあがっていきました。その動きは19世紀後半に始まったと言えるかと思います。例えば1885年6月フィラデルフィア・フレンド[2]婦人外国伝道協会の会合で留学中の新渡戸稲造と内村鑑三が日本に女子のための学校が必要かと問われ、二人はその必要を訴えたので、同年12月にはジョセフ・コサンド宣教師夫妻が日本に派遣され、津田梅子の父津田仙(1837〜1908)の支援を受けながら1887年に普連土女学校(現普連土学園)を東京に開校しています。

 

第1章

さて、サラ・C・スミス(Sarah C. Smith,1851〜1947)にもそのようなことが起こります。1851年ニューヨーク州のエルマイラ市郊外で農業と実業を営む両親のもとに生まれましたが、7歳で父親を亡くし、母親も程なく亡くなり、サラは9人の兄弟姉妹の下から2番目で、最初の3人の兄たちは夭折、ほかの兄弟姉妹は不明ですが、彼女は孤児院に引き取られ、そこから学校に通いました。孤児といいますと可愛そうだと思われがちですが、その孤児院は女性救済協会(The Ladies’ Relief Association,1864創立)が運営する信頼の厚い孤児院であり、エルマイラ第一長老派教会女性宣教協会の熱心な会員メアリー・ジレットが支援する孤児院でもありました。サラはメアリー・ジレットと著名な実業家の夫ソロモン・ジレットに家族のように大切に育てられましたので、また、当時は両親の死による孤児が多い時代でしたので、さほど大きな悲しみにはならなかったかもしれません。いずれエルマイラの教会に行きながら、私立から行政の要請で公立となったエルマイラ・フリー・アカデミー(Elmira Free Academy, 公立高校、男女共学)で4年、フランス・ドイツで2年学び、その後4ヶ月教職に就いてから21歳の時ニューヨーク州立ブロックポート師範学校で学び、5年間養護学校で教えています。スミスは教師としての十分な経験を積んで教育宣教師として1880年29歳で来日しました。

<北星学園創立百周年記念館作成パンフレットの表紙>

 

彼女の来日の経緯ですがエルマイラ第一長老教会(創立1795年)の牧師の息子ジョージ・ウィリアム・ノックスが日本に1877年に宣教師として派遣されて、ヘボン塾、東京一致神学校教授を経て明治学院創立に参画していましたが、その彼がその頃母教会に日本のグラハム・セミナリー(現女子学院の前身、新栄女学校)の教師募集を依頼し、牧師と息子ノックスの推薦でスミスに白羽の矢が立てられたということです。また、スミスのお兄さんが牧師に就任した直後、病に見舞われ説教壇で倒れたことも、兄の遺志を継いで宣教師になろうという強い決意につながったと言われています。[3]スミスは学校や教会での活動を通して、生きる指針をキリスト教信仰に求め、成長期の特に女子に、男性に頼らないで主体的に生きること、良妻賢母を第一とするのではなく、まず第一に良い人間となることを教えたいと考えていたと思われます。なぜならばアメリカでは19世紀中頃から高い教育を受けた女性たちは奴隷制廃止運動(「奴隷解放宣言」をリンカーンは1863年署名)、主体的に生きる女性を目指す女性権利拡張運動、女性参政権獲得運動(米国では女性の参政権は1920年発効)の影響を少なからず受けて、社会や個人意識の改善向上を願うがゆえにキリスト教主義学校の教師を志願することが多かったからです。[4]教育の分野ではメアリー・ライアン(Mary M. Lyon,1797~1849 )が男性に負けない高い学力と教養を身につけられるマウント・ホリヨーク・セミナリーを1837年に(1895年、大学となる)設立しました。日本ではその例をメアリー・ライアンに私淑していたマリア・トゥルー(Maria T. True, 1840~1895)らによって設立された女子学院の初代院長矢嶋楫子[5](1833~1925)に見ることができます。

スミスは1880年アメリカの長老派教会外国伝道局から東京の新栄女学校(後の女子学院)に派遣されました。スミスはそこで3年教師として働きますが、途中東京の湿気のある暑さが体に合わず、1883年札幌に転地療養します。その時に札幌農学校一期生で母校の教師をしていた大島正健らに出会います。その時、大島等札幌農学校の一期生、二期生で母校の教師をしていた者たち(お雇いアメリカ人の教師兼医者のカッター博士、大島正健、内田瀞、宮部金吾ら)に札幌で女学校を始めることを勧められますが、アメリカの伝道局はまだ健康が十分でなく開発途上の札幌はうら若き女性宣教師には不向きであろうとして函館を勧めます。それで函館の長老教会の手伝いをしながら自宅で子どもや大人に英語や家事、聖書を教えていましたが、大島正健や宮部金吾らの道庁長官への働きかけでスミスは翌年北海道尋常師範学校のお雇い英語教師として招聘されます。

スミスは函館で遺愛女学校と自分の塾で学んでいた10歳の河井道(1877〜1953)[6]ら7名を連れて1887年1月に札幌に向かいます。小樽の港には札幌農学校の学生たちがソリを持って出迎えてくれ、手宮駅まで送ってくれたそうです。手宮駅からは札幌駅に向かい、札幌駅には大島正健らが出迎えました。そして北海道庁長官岩村通俊が道庁向かい(北1西6)の職員官舎の1つをスミスの住居に、そして厩舎(馬の世話をする)職員の宿舎(6畳と12畳)を生徒たちの宿舎と教室に提供してくれました。8月には40畳の2階建ての校舎を新築してもらい、生徒が46人、園児も30名ほど集まり、その中には、年齢に制限がありませんでしたから、北海道庁上級職員の夫人達、大島正健、森本厚吉の夫人達のように札幌農学校の教授の夫人達、経済界の重鎮の夫人達、娘達もいました。新築校舎が整えられたこの年1887年の8月25日に「女学校開業式」が執り行われました。たまたま札幌に避暑に来ていた新島襄夫妻も参列しています。スミスの休暇帰国中に校主大島が1889年9月予科、本科、幼稚園を付設する私立学校「スミス女学校」の認可を取り付けました。

函館遺愛女学校創立は1882(明治15)年、北海道庁立札幌高等女学校は1902(明治35)年、函館高等女学校は1905(明治38)年、カトリック札幌藤高等女学校は1925(大正14)年に比べ、1887年創立のスミス女学校はいかに歴史的に古いかがおわかりでしょう。

<上掲写真:百周年記念館所蔵、実際は1888(明21)年頃、後列左から4番目、スミス>

さて、スミスが退職し、帰国する1931年までに北星女学校におられたアメリカ人女性宣教師はスミス、ロースを入れて5人ですが、特に7代校長となる1905年に来られたモンク、12代校長となる1911年に来られたエバンスの活躍は大きいです。日本基督教会札幌豊平教会の記録に、1906(明治39)年頃から、つまりスミスは生徒を連れて日曜日の朝ごとに南一条橋を渡った豊平地区、旧ルネッサンスサッポロホテル(現プレミアホテルTSUBAKI札幌)の周辺にはたくさんの貧しい人々と子ども達が住んでいたので、集会所を設け子ども達の鼻を拭いてあげたり、手足を洗ってあげたり、髪を解いてあげたりなどの衛生指導や、遊んであげたり、リーフレットの教材やミニカードで聖書や讃美歌を唱えたり、文字を教えたりなどをしたそうです。そのような日曜学校は銭函、山鼻、北20条など11か所位も設けられ、モンク、エバンスも生徒たちを連れて出かけていたとのことです。それに関しては『恩師のおもかげ』という北星学園同窓会誌に生徒の作文としていくつか証言があります。クリスマスには女の子は顔が瀬戸物でできた西洋人形がもらえるのが楽しみだったそうです。男の子は何をもらったのでしょうか。作文にお菓子をもらったという記事はありません。当時は今のように日曜学校でお菓子をあげる習慣はなかったのかもしれませんね。豊平橋の中央区側には1894年に新渡戸稲造夫妻の建てた貧しい子どもたちに勉強を教える遠友夜学校がありましたが、豊平川の対岸はさらに貧しい地区で、勉強より前に助けなければならないことが多くあり、衛生面の指導や人間として喧嘩をしないで仲良くする、正直に生きる、神様を信じて生きるといったことを楽しく教えたようです。寒い冬も毎週女生徒たちと一緒にスミス先生たちが北星女学校からそこまで通ったのかと想像しますとそのご苦労に頭が下がります。校舎は1929(昭和4)年南5条の新校舎に移りますが、[7]その後も日曜学校活動は続けられたのだと思います。

生徒たちに学校の勉強ばかりでなく生活の中で人間としての生き方を現場に出て教えることはスミス先生はじめアメリカの女性宣教師たちの目指していたことなのだとつくづく感じます。それは次にお話しますロース先生にも通ずることです。スミスたちの日曜学校の活動は日本キリスト教会札幌豊平教会の、地域のどなたとでも無料で食事をいっしょに食べる「とよひら食堂」(現在はコロナ感染予防のためお弁当の提供)の活動につながると豊平教会の稲生義裕牧師が先日訪問した時に話して下さいました。また、この地区は戦前から助け合い活動が盛んで、札幌初の保育園の誕生、低家賃住宅長屋建設、愛隣館という公会堂・無料宿泊所建設、授産事業、未就学児への給食、無料診療所、やよい児童会館などが私財の投入、民間の寄付によって運営されていたそうです。発端はスミス先生の日曜学校活動が模範となったと言われています。

稲生牧師はスミスさんがアメリカの宣教団体の援助のもとで、豊平地区の子ども向け日曜学校の建物に大人向けの講義所も併設してくれていたので、戦後そこで日曜学校と伝道所を復活することができたのだと話してくれました。戦前の日曜学校で育った子ども達が大人になってその講義所を教会として成長させたのだそうです、またその教会は1991年ルネッサンスホテルの建設に伴い豊平橋の袂の地区から、豊平区豊平6条の代替地に移り、新会堂建築の際には定礎石として「スミスタワー」を建てサラ・C・スミス先生を顕彰しているとのことです。


<札幌豊平教会、筆者撮影2024年8月28日>


このようにしてサラ・スミス先生は学問と信仰を日常に表し、子ども達に人間としての生き方を教えたのだと考えられます。すぐに結果は見えずとも信じて行い続けることの大切さを『コリントの信徒への手紙』I3章6節の「わたしは植え、アポロが水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」の聖書の言葉が今更のように思い出されます。スミスさんは1931(昭和6)年10月帰国し、カリフォルニアのパサデナの老人施設に住みながら、パサデナ日本人ユニオン教会に席を置き、沢山の日本人に囲まれながら楽しく過ごし、1947(昭和22)年2月に96歳の誕生日の数週間前に召天されました。パサデナの隣のアルタデナ市のマウンテンビュー墓地に日本に長く住んでいた親しい女性宣教師姉妹のお墓近くに眠っているとのことです。スミスは宣教師生活を神様に導かれて見事に全うした女性のように思われます。しかしそこには多くの特に札幌の人々の手厚い支援があったことを忘れることはできません。これは言い換えますと、スミスさんの教育活動は米国宣教団体の支援はいうまでもないのですが、札幌農学校(のち北海道大学)の教授たち及び諸教会関係者、事業家たちの人道主義、教育への情熱、分けても女子教育発展への情熱、地域社会の発展への情熱という理想に裏付けられた神への畏敬、キリストの愛に基づいた支援に大いに恵まれたということができるように思われます。そして彼女の活動の実が北星学園のみならず、いくつかの教会に、少なからぬ人々の心に今なお実っていることは素晴らしいことですね。

         

第2章

次にクララ・ヘリック・ローズ(Clara Herrick Rose, 1850~1914)に移ります。彼女が長く暮らした小樽では人々は「ローズ」は発音しにくかったので「ロース」と発音していたと言います。今も小樽の観光案内所の人も「ロース先生」、「ロース幼稚園」と呼んでいます。現在の幼稚園の正式名称も「ロース幼稚園」です。そこで私もここでは「ロース」と呼ばせていただきます。

ロースは1850年ペンシルベニア州ミルフォードに生まれます。10歳頃父親が亡くなりますが、家族でイリノイ州ロックフォードに移り、東ロックフォード高校、ロックフォード大学に進みます。1875年にニューヨーク州エルマイラに住む14歳年上の兄の家の近くに母親、姉と引っ越し、エルマイラ女子大学で2年間学びを続けます。3歳の時ミルフォードの第一長老教会で洗礼を受け、エルマイラに移ってからはサラ・スミスと5年間は同じ教会で一緒に活動をしていたと考えられます。文学と音楽、絵画の才能に優れ、高校や女子大学でも教えていましたので、教師として十分な経験を持っていたといえると思います。エルマイラ第一長老教会から女性教育宣教師として1885年に来日し、8年間東京の新栄女学校(のち女子学院)で主に音楽を教えました。

そして、1894年2月にスミスの要請で人手不足を補うために札幌のスミス女学校に来ます。ちょうどその年スミス女学校は今までの校舎の7年間の借用期限が迫っていたので、10月に北4条西1丁目の元北海英語学校の敷地と校舎を購入し移転することになります。その交渉と経済的援助にはスミス、ロースのほか医師で校主の島田操、弁護士の仁平豊次、北見のジョージ・P・ピアソン宣教師、宮部金吾、新渡戸稲造らが大いに尽力したそうです。その場所は今のANAクラウンホテル札幌の場所で、1891年に札幌農学校教授として着任していた新渡戸の官舎がその校舎の向かいにあり、生徒たちが官舎の庭を越えて遊びにきたり、新渡戸がスミス先生の不在の時には代わりに英文学や西洋史の授業を引き受けたりと親しい交流が可能となりました。その交流の中で、スミス校長から校名を日本名にしたいので生徒たちで考えてほしいという提案が出され、生徒たちと新渡戸で話し合い生徒たちから「北星」案が出て新渡戸も賛成し、関係者の総意で決まったと言われています。[8]校名は校舎移転後の10月に「北星女学校」と改名しています。新渡戸の家で熱心に英語を学び、時には秘書的手伝いをしたりしながら、留学の希望を叶えさせてもらったのは函館からスミス先生といっしょに札幌に来ていた河井道でした。河井道は1895年に第3期生として18歳で卒業し、ロースが小樽で始めた静修女学校と幼稚園で舎監、日本人教師の助手として1年半働きます。

<現在のロース幼稚園、筆者撮影2024年9月8日>

写真左:前列左からアナ・ハーツホーン、河井道、女生徒、中列レイチェル・リード、新渡戸夫妻、養子の孝夫、女生徒、後列札幌農学校の学生たち、『サラ・スミスと女性宣教師―北星学園を築いた人々』48頁。

 写真右:当教会の横矢夫人のお祖父様、元会津藩士金子家英教頭(1853~1927)は数学、

漢文等を得意とし、国家主義教育で「良妻賢母」が強要される中、学則にキリス

ト教に基づいた「虔淑有用」という言葉を入れることでキリスト教主義を貫く知

恵を授けたと言われる。北辰教会(現北一条教会)長老。『北星学園百年史 通史

篇』124頁、『サラ・スミスと女性宣教師―北星学園を築いた人々』91頁。

 

クララ・ロースは北星女学校では音楽、絵画、英語、聖書を月曜から金曜まで教えました。ロースは手紙に、新渡戸稲造が札幌農学校の学生に聖書等についてはロース先生に聞きに行くようにと勧めたので、夕方にはよく札幌農学校の学生たちが来ていると書いています。ロースの深い聖書理解、人間理解に新渡戸が高い信頼を寄せていたと考えられます。[9]

<ロースは絵画と音楽の才能が豊かだったという。ロース幼稚園記念室の絵、筆者撮影>

 

ロースは一年間北星女学校で働いてから、小樽に静修女学校を開きます。最初は借家で、間もなく自らの資金538円で2階建ての校舎を建て、1895(明治28)年に北星を卒業した18歳の河井道を寄宿舎の舎監、日本人教師の助手として1年半雇いました。ロース幼稚園に残されているロースの手になる記録には「1895年7月ロースと河井道により小樽に静修女学校、97年に幼稚園が開かれた」とあります。1895年8月7日付書簡には「6月末小樽に来てから、貧民街の日曜学校、教会の婦人たちのための仕事、男子の英会話の授業と女学校を始めた、その年(6月)北星女学校第3回生として卒業した「優秀な助手」とともに」と記しています。ロースは北星での仕事を翌年1896年12月まで行っています。河井道は1897(明治30)年10月療養のため札幌農学校を退職する新渡戸夫妻に同伴し列車で札幌を去り東京に向かい、翌年新渡戸夫妻ともにアメリカ留学に船で出発します。

そもそもロースが小樽で女学校を始めたいと思った理由は、1887年来日し明治学院中学校等で教えた後、1894年から小樽に住んで日本基督教会小樽講義所(現小樽シオン教会)を支援していたピアソン宣教師と光小太郎牧師から小樽には女学校がなくとても必要とされていると勧められたことによります。美しい佇まいの洋館、ピアソン記念館が現在北見にありますが、ロースはピアソンから小樽は商業は活発だが、学問に関心のある学生や役人が極めて少なく、不道徳が蔓延している、また女性たちが虐げられていると指摘され、彼女はこういうところで神の愛を伝えて、正しく、清く生きることを教えるのが自分の使命ではないかと思うようになりました。後にピアソン夫妻は廃娼運動、アイヌ伝道に見られるように、貧しい人々、差別されている人々の友となって活動した人でした。河井道の書いた自叙伝『わたしのランターン』に、小樽での訓練は後の自分に大いに役立ったと書いています。[10]

河井はロースが月曜の早朝一番列車で現在の南小樽駅から札幌駅まで行く列車の見送りに提灯(ランターン)を照らしながら先導し、金曜日に帰宅するロースを出迎えるということを1年半続けます。静修女学校は順調に栄えますが、隣接する札幌と小樽に2つの寄宿舎のある女学校を同じ宣教団体が経営することで北星と静修女学校が生徒の取り合いをすることになりはしないかという懸念が呈され、1897年9月小樽の静修女学校は寄宿制度を廃止され宣教本部から静修女学校の寄宿舎への支援金は止められました。しかし幼稚園の設置が決まりました。寄宿制度のある札幌の北星女学校に転校する生徒が何人か出ましたが、ロースは静修で学びたい遠隔地の子どもは自分のお金で面倒を見ることにしました。思いますに宣教団体がもう少しロースの教育宣教活動に理解を示してくれたならば彼女の経済的苦労が緩和したのではないかと思わされます。

ロースは1896年12月から小樽に専念します。当時の小樽でのロースの伝道、教育活動には目覚ましいものがあります。女学校には100名の生徒、35人の日本人婦人が自分の誕生パーティーを開いてくれたとか、1900年手宮に日曜学校、翌年幼稚園と英語学校を開設、1903年には住吉日曜学校は100名の子どもたちが出席するなどの記録が残っています。[11]


<左:ロースの蔵書、右:女学校生徒と幼稚園児、ロース幼稚園記念室所蔵、筆者撮影>

 

1908(明治41)年、静修女学校の周囲の土地は皆売られ、借地としての校地は購入が迫られました。ロースは海外伝道局本部から5000円を得ますが、残りの2530円は友人や学校の会計、ロースの給料で賄うように指導されます。ロースは100人の園児、100人の女生徒の教育は10万人の小樽での唯一のクリスチャンスクールとして存在価値が非常に高いと考え、その校地の購入と増築を実行します。実際卒業生の何人かは女子学院に進み、立派な日曜学校教師、幼稚園教師になっているのです。1913年9月から新校舎での授業が始まりました。

<「ミス・ロース宣教師館」(小樽市富岡1丁目8番2号)、ロースと地元の職人とでアメリカ的な洋館に和風を加えて建てたとのことである。1913年増築の新宣教師館の写真、ロース幼稚園でいただいたテレフォンカードの写真説明参照>

 

ところが新しい学園生活が軌道に乗った翌年1914年6月14日、日曜日の朝、ロースに突然の死が襲います。北星女学校のスミス、モンク、マクロリーら教師たちがまず駆けつけ、ピアソン夫妻は翌日、当時住んでいた野付牛(現在の北見市)の野に咲く鈴蘭を持参し、枕辺に捧げたそうです。享年64歳。ロースのお墓は札幌の円山墓地にあり、毎年ロース幼稚園園児たちは、お墓参りをしているとのことです。後日、遺品の整理に北星女学校からジャンソンと金子家英が来訪、蔵書(340冊程)は全部教会に、現在はロース幼稚園ロース記念室に残されています。

1913年に美しく増築された洋館の静修女学校の校舎兼ロース先生の住居にロースは1年足らずしか住まうことができず、しかもロースの死去に伴って宣教団体は経費の関係上幼稚園は残すが静修女学校は廃校すると宣言しました。二代目園長のマクローリー先生のもと、その洋館は幼稚園の運営に用いられることになりました。しかし1991年、学校法人の基準とする園庭の確保のためには洋館を取り壊さなければならず解体されました。解体された資材は現在有志によって保存され、また職業訓練短大の先生が実測調査により図面を保存しているそうです。現在新しい幼稚園園舎二階にロース記念室が設けられ、昔が忍ばれています。

 

  <現在のロース幼稚園の看板、筆者撮影>

 

<ロース幼稚園2階「ロース記念室」にある、ロース初代園長、マクロリー2代目園長、4代目藤本喜代枝園長の写真。3代目園長は近藤治義牧師(元遠友夜学校教師)[12]、筆者撮影>

 

ロースの生涯はスミスと比べると32年も短く、教育宣教活動の期間も1895年〜1914年の19年と短いのですが、小樽市の各地に日曜学校、婦人会、青年のための英語教室、本拠地宣教師館での静修女学校、幼稚園と札幌に比べると格段に少ないスタッフにもかかわらず実のある活動をしたことが伺われます。短期間にたくさんの子ども達、青年、婦人達を集めることができたのはロースの「マイガールス(わたしのムスメ)」と呼んで育てる愛情深さ、献身的、親和的で使用人とも対等に付き合う姿勢が功を奏したと考えられます。ロースの広く温かい気質は浜っ子小樽の人々の愛情と尊敬と同情を一心に集めたのだと想像されます。また、女子学院出身の大久保タマのような音楽、家政学、フレーベルの幼児教育を収めた優秀な教師たちに支えられたり、教会の婦人や地域の人々の支援にも恵まれました。[13]河井道は共同の井戸の石の流しで大きな魚をさばけないで苦戦していた時に後ろから近所のお産婆さんが来てさばき方を教えてくれたと記しています。[14]

ロース幼稚園は北星学園の幼稚園が1894年に閉鎖になって、2年後の1897年に開園しています。ミッション系の幼稚園としてはスミス女学校付属スミス幼稚園が1887年開始(1894年募集停止)、遺愛女学校付属幼稚園が1895年開始についで、3番目の古さです。この幼稚園出身で『荒野のバラークララ・H・ローズと静修女学校―』(1995年出版)の著者荻野いずみ氏はロースの愛唱聖句は「コリント人への第一の手紙」第13章であり、「愛の人」という言葉ほど彼女に相応しいものはないと語っています。[15]訃報の知らせはいち早く小樽新聞にも掲載されました。

<クララ・H・ロースの自画像と思われる。ロース幼稚園記念室所蔵、筆者撮影>

 

 今回、聖書講話のためにいくつかの資料を読んだり、北星学園創立百年記念館、ロース幼稚園と記念室、札幌豊平教会と小樽シオン教会にて職員の方、牧師先生との語らいを通して、スミス、ロースのキリストの愛に根ざした崇高な生涯を辿ることができて、私自身多くのことを学ばさせていただきました。ご協力をいただきました皆様に心より感謝申し上げます。お聴きくださった皆様はいかが感想をお持ちになりましたか。

皆様の上に主イエス様の祝福をお祈り申し上げます。(了)

 

[1] 今まで「Sarah Clara Smith」 と綴られてきたが、北星学園は近年の研究により「クララ」の部分が確証できないとして、サラ・C・スミスと表記している。話者もそれに従う。北星学園創立130周年記念誌編集委員会編 『サラ・スミスと女性宣教師―北星学園を築いた人々』学校法人北星学園、2017年、62頁参照。

[2]キリスト友会、フレンド派、クエーカー派と呼ばれるプロテスタントの教派、創始者はジョージ・フォックス(1624〜1691)。

[3] 北星学園百年史刊行委員会編『北星学園百年史 通史篇』1990年、40〜42頁参照。

[4] 武田貴子・緒方房子・岩本裕子編『アメリカ・フェミニズムのパイオニアたちー植民地時代から1920年代まで』彩流社、2001年参照。

[5] 1878〜90年新栄・桜井両女学校教師、1890〜1913年女子学院初代院長、1893年キリスト教婦人矯風会会頭、院長退任後は禁酒運動、公娼制度廃止運動等婦人福祉に一生を捧げた。

[6] 北星女学校卒業後、小樽の静修女学校勤務後、新渡戸稲造の勧めで米国ブリンマー大学に留学。帰国後女子英学塾教授、日本人初代YWCA総幹事、恵泉女学園創設者。

[7] 1988年に南4条に住所表示が変更される。『サラ・スミスと女性宣教師―北星学園を築いた人々』168頁参照。

[8] 『北星学園百年史 通史篇』98頁、116頁参照;『サラ・スミスと女性宣教師―北星学園を築いた人々』47頁参照。

[9] 荻野いずみ「荒野のバラークララ・H・ローズと小樽静修女学校―」<3>」『Linus』10号、1995年、43頁参照。

[10] 河井道・翻訳委員会訳『わたしのランターン』新教出版社、1976年、92頁参照。

[11] 荻野いずみ、前掲論文<5>『Linus』12号、8頁参照。

[12] 小樽ロース幼稚園創立百年記念誌編集委員会編『ロース幼稚園―100年のあゆみー』小樽ロース幼稚園創立百年記念事業実行委員会、1998年、63〜83頁参照;近藤治義「夜学校の思い出」(札幌市教育委員会文化資料室編『遠友夜学校』北海道新聞社、1989年、210〜213頁参照。

[13] 荻野いずみ、前掲論文<4>『Linus』11号、8頁、<5>『Linus』12号、9頁参照;安孫子八重子「第一回の入學生として」、河井道「ロース師とともに」(近藤治義編『バラと十字架―ミス・ロースの生涯』)小樽ロース幼稚園、1954年、37〜46頁参照。

[14] 河井道・翻訳委員会訳、前掲書、87頁参照。

[15] 荻野いずみ、前掲書<4>、『Linus』11号、8〜9頁参照。




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