2024年1月5日 主日礼拝
聖書講話 「マタイ福音書のイエス (第24回)~正義・布施・清らか・平和~」
聖書箇所 マタイ福音書 5章6~9節 話者 三上 章
[聖書協会共同訳]
※下線は修正の余地があると思われる部分
6 義に飢え渇く人々は、幸いである/その人たちは満たされる。7 憐れみ深い人々は、幸いである/その人たちは憐れみを受ける。8 心の清い人々は、幸いである/その人たちは神を見る。9 平和を造る人々は、幸いである/その人たちは神の子と呼ばれる。
以下は,ギリシャ語原文の解明に基づく三上の私訳と講解です.
6 μακάριοι οἱ πεινῶντες καὶ διψῶντες τὴν δικαιοσύνην, ὅτι αὐτοὶ χορτασθήσονται.
至福(・・・)飢え渇いている人たちは←正義に関して.なぜなら彼らこそは,充足させられるでしょう.
6.1 「至福(・・・)」(マカリオイ)
共感を示す表現.断言ではない.教訓でもない.私はあなたがたのことを覚えています.あなたがたの側に立っています.あなたがたを支持しています,と福音書記者マタイは言っている.
6.2 「飢え渇いている人たちは←正義に関して」
「飢えて渇いている人たち」への社会経済史的眼差しを閉ざしてはいけないことは,いうまでもない.マタイはそれに「正義に関して」という限定をつける.正義をなくてはならない食物とし,正義をなくてはならない飲み物とする人たちである.正義なしには生きていくことができない人たちである.
「正義」(ディカイオシュネー」は,プラトンの『国家』篇によると,第一義的には自分のことである.他者のことではない.自分の心のあり方である.社会の正義は,他でもなく自己の正義を礎としなければいけない.自己の正義という土台があってこその社会の正義である,とするプラトンの正義理解に私は同感する.
それではプラトンの言う自己の正義とは何か?プラトンが措定するところでは,魂は理知・気概・諸欲望の三部分からなる.理知が気概の協力を得て,諸欲望を抑制している状態,それが魂の調和であり,魂の正義である.
6.3 「彼らこそは充足させられるでしょう」
「彼らこそは」は強調表現.正義に関して飢え渇いている人たちへの強い眼差しである.「充足させられるでしょう」と未来形であるのは,今は実現されていないけれども,将に来たらんとする時に必ず実現するという確信の表明である.正義探求の努力を継続するなら,かならず正義は実現する.それをソクラテスは「魂の世話」と呼ぶ.
7 μακάριοι οἱ ἐλεήμονες, ὅτι αὐτοὶ ἐλεηθήσονται.
至福(・・・)布施する人たちは.なぜなら彼らこそは,布施されるでしょう.
7.1 「布施する人たち」
「布施をする」(エレエーモーン)の原義は,「かわいそうに思う」「慈しみふかい」.単に心の中で思うだけではなく,その思いを実行すること.それゆえ「布施する人たち」と訳した.寄付をする.プレゼントする.モノを送る.それが布施をすることである.
7.2 「布施されるでしょう」
とはいっても,見返りを期待してはいけない.布施すること自体が,とりもなおさず布施されることである.
8 μακάριοι οἱ καθαροὶ τῇ καρδίᾳ, ὅτι αὐτοὶ τὸν θεὸν ὄψονται.
至福(・・・)清い人たちは←その心において.なぜなら,彼らこそは,神を見るでしょう.
8.1 「清い人たちは←その心において」
「清い」(カタロス)の原義は,「身体が清潔である」「汚れのない」.比喩的な意味として「混ぜ物がない」「清浄な」「純粋な」.「その心において」と限定がついている.それゆえ「清い人たち」と訳した.心において清いということは,一石一朝に実現されることではない.祈りと観想における誠実な努力を要する.
その努力の模範として,私が敬服している人は,カンタベリーの大司教アンセルムス(1033-1109年)である.以下に紹介するのは,彼がフランスのカーン(Caen)の修道院長であったときの,自己省察(じこしょうさつ)である.
「わたしは師と呼ばれていますが,実際にそうであるかどうか,わたしにはわかりません.牧者と称されていますが,そうではあり得ません.修道院長と言われますが,そうではありません.人々は,わたしが修道院長の座にあるのを見ますが,わたしには自分が修道院長としてなすべきことをしていないことは明白です.彼らは,修道院長としてわたしが先を行くのをみますが,自分が修道院長のように生活していないのは明らかです.彼らは,修道院長に対する敬意をわたしに表しますが,修道院長らしい振る舞いをわたしは彼らに示していません.わたしはまだよい信徒として生きていませんが,彼らはわたしが修道士として生活することを期待しています.不肖,「虫けらで,腐敗した」わたしは,なにを行い,なにをおこがましくも果たし,なにに同意したのでしょうか?」古田 曉 訳 『祈りと瞑想 カンタベリーのアンセルムス』(教文館,2007年)145-146頁を参照.
心の清い人は,生涯をとおしての修行によって徐々に形成されていく.
8.2 「神を見るでしょう」
これが心の清い人の究極点である.「フランダースの犬」のネロを想起する.原題は,A Dog of Flanders. イングランドの女流作家ウィーダの作品.原作ではネルロ.ネルロは愛犬パトラッシュと共に町に牛乳を売りに行く貧しい少年.絵への志を抱き,金持ちの娘アロアの肖像を描く.しかし,アロアの父はネロを町から追い出す.やがてネルロは,ルーベンスの絵の前で凍死する.彼は心の清い少年であった.
9 μακάριοι οἱ εἰρηνοποιοί, ὅτι αὐτοὶ υἱοὶ θεοῦ κληθήσονται.
至福(・・・)平和をつくる人たちは.なぜなら彼らこそ息子たち←絶対神の⇦と呼ばれることでしょう.
9.1 「平和をつくる人たち」
自分の心の中に平和をつくることが,先決事項である.心の平和は祈りによってつくられる.1989年11月9日のベルリンの壁崩壊を想起する.1981年,ドイツ・ライプツィヒのニコライ教会で牧師のクリスティアン・フューラーが始めた「平和の祈り」がその礎となった.「平和の祈り」は,毎週月曜日に様々な教会おける祈りの会に波及した.そしてそれらは,非暴力による巨大なデモ行進に発展し,ベルリンの壁崩壊をもたらした.
9.2 「息子たち←絶対神の⇦と呼ばれることでしょう」
「息子たち」(ヒィオイ)にも,「ある神の」(テウー」にも,冠詞がついていない.特定の息子たちではない.特定の神ではない.「息子たち」とは,あらゆる時代のすべての場所の人々である.「絶対神」とは,他に比較する神や対立する神がない神である.神々の中の神.神々を超越した神である.
ジョン・レノン&ヨーコ・オノの「IMAGINE ALL THE PEOPLE LIVING LIFE IN PEACE(「想像しよう,すべての人々が平和に生きていると」に通底する考えである.
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