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執筆者の写真平岡ジョイフルチャペル

12/29 マタイ福音書のイエス (第23回)~学友たちとの共通認識~

2024年12月29日 主日礼拝

書講話     「マタイ福音書のイエス (第23回)~学友たちとの共通認識~」 

聖書箇所    マタイ福音書 5章1~5節   話者 三上  章



      [聖書協会共同訳]  

        ※下線は修正の余地があると思われる部分

1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが御もとに来た。2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。3 「心の貧しい人々は、幸いである/天のはその人たちのものである。4 悲しむ人々は、幸いである/その人たちは慰められる。5 へりくだった人々は、幸いである/その人たちはを受け継ぐ。

  •  

 以下は,ギリシャ語原文の解明に基づく三上の私訳と講解です.


1 Ἰδὼν δὲ τοὺς ὄχλους ἀνέβη εἰς τὸ ὄρος · καὶ καθίσαντος αὐτοῦ προσῆλθαν αὐτῷ οἱ μαθηταὶ αὐτοῦ ·

(イエスは)見たとき←諸集団を,登った→その山の中へ.そして座ったあと←彼(イエス)が,近づいた←イエスに⇦彼の学友たちが.


1.1 「(イエスは)見たとき←諸集団を,登った→その山の中へ」

1.1.1  「(イエスは)見たとき←諸集団を」

 歴史上のイエスが見たことと,福音書記者マタイが見たこととが重ね合わされている.イエスのあとに,あらゆる地方から諸集団が従ったように,マタイ教団のあとにも,あらゆる地方から諸集団が従う,というマタイの世界宣教の理念が重複している.

1.1.2 「登った→その山の中へ」

 ユダヤ人の王なるイエスが登ったのは,宮殿の王座ならぬ「その山」(ト・オロス)である.城壁も番兵もいない自然である.だれもが自由に入ることができる.「山」に定冠詞がついているから,「その山」である.特定は不可能であるが,ガリラヤ地方の高地のどこかであると推察できる.

1.1.3 ガリラヤ Galilaia の地理


 ギリシア語表記.ヘブライ語ではガリリ Ha-Galil.名称の意味」は「地域」.その範囲は1世紀の歴史家ヨセフスによると,西はアコーとカルメル山,南はサマリアとベートシャン,東はガリラヤ湖とヨルダン川,北は現在のレバノンとの国境になる.ガリラヤは高地と低地に2分され,高地ガリラヤの主要都市はツェファト,低地ガリラヤの主要都市はナザレ.

            イエス時代のパレスティナ


1.2 「そして座ったあと←近づいた←イエスに⇦彼の学友たちが」

1.2.1 「座った」

 教師が教える時の姿勢である.

1.2.2 「近づいた←イエスに」

 「近づいた」のは,直接に教えを受けるため.遠くから聞くのではない.又聞きをするのではない.イエスと対面で学習する.

1.2.3 「彼の学友たちが」

 イエスのあとには4人の学友たちが従っていた.ペトロとアンドレアス兄弟,およびヤコブとヨハネ兄弟.彼らは知ることを切に願った.何をか?ユダヤ人の王イエスは,どのような王国を樹立し,どのような統治を行おうとしているのかを.


2 καὶ ἀνοίξας τὸ στόμα αὐτοῦ ἐδίδασκεν αὐτοὺς λέγων ·

そして(彼=イエスは)その口を開いたあと,彼らを教えた.曰く.


2.1 「(彼=イエスは)その口を開いたあと」

 イエスはしばしの沈黙のあと,おもむろに口を開いた.知者は拙速に口を開かない.沈思黙考のあと,語る.イエスは「神の声」を聞いたあと,それを伝える.


2.2 「彼らを教えた」

 「彼ら」とはだれか?文脈から見て,内輪の学友たちであると理解するのが妥当であろう.多くの絵画では,イエスは群衆を教えたように描いているが,やや的外れ.イエスは,自分と共通認識をもつことができる水準に達している,少数の学友たちに向かって,自分が目指すユダヤ人たちの王国の在り方を解明する.心が通った学友たちに,ご一緒にこういう王国を建設しましょうと呼びかける.


3 Μακάριοι οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι, ὅτι αὐτῶν ἐστιν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.

至福(・・・)←極貧の人たちは←そのプネウマにおいて.なぜなら,彼らのものだからです←諸天の王国は.


3.1 「至福(・・・)←極貧の人たちは←そのプネウマにおいて」

3.1.1 「「至福(・・・)」

 「至福」(マカリオイ)は複数形.単数形は「マカリオス」で,その意味は,単に「幸福な」ではなく「最高に幸福な」である.それゆえ,「至福」と訳した.「至福」には動詞がついていない.補足として,「である」「あるべきである」「あるでしょう」が推量できる.しかし,無理に補足する必要はない.マタイのイエスは,イエスの王国の国民のことを言っている.その国民は至福な人々である.金銭・名誉・快楽に富むという意味で,至福な人々ではない.では,どういう意味においてか?

3.1.2 「極貧の人たちは←そのプネウマにおいて」

 イエスの王国の国民は,「極貧の人たち」である.原語の「プトーコス」の意味は,単に「貧しい」ではなく「最高に貧しい」である.それゆえ,「極貧の」と訳した.とはいえ,ユゴー作『レ・ミゼラブル』が意味する,社会経済的に最下層の人々という意味ではない.「そのプネウマにおいて」という限定がついている.


「そのプネウマ」という語をどのように解明し,理解するかについては,諸説紛々である.ひとまずギリシア語をカタカナに音写しておいた.プネウマの原義は,「突風」「空気」.派生的に「涼風」「影響力」,「呼吸された空気」「気息」,「神の精気」,「人間の精気」とう意味で使用される.私は「気」という訳語がよいのではないかと思う.気には善い気と悪い気があるが,ここでは悪い気と解釈し,「邪気」と訳したい.「邪気において極貧の人たち」となる.邪気がほとんどない人たちということ.妬み,憎しみ,殺意,敵対,侵略,攻撃といった悪い行動には無縁の人たちである


3.2 「なぜなら,彼らのものだからです←諸天の王国は」

3.2.1 「彼らのものだからです」

 「です」は現在時称.今ここで実現している.いつか将来ではない.

3.2.2 「諸天の王国は」

 イエスの王国は,イエスに惹きつけられて,今ここに集合している諸集団によって所有されている.マタイ教団の実状と重ね合わされている.


4 μακάριοι οἱ πενθοῦντες, ὅτι αὐτοὶ παρακληθήσονται.

至福(・・・)←悲嘆している人たちは.なぜなら,彼らこそは慰められるでしょう.


4.1 「悲嘆している人たち」

 「悲嘆する」(ペンテオー)の原義は,単に「悲しむ」だけではなく「ひどく悲しむ」「嘆き悲しむ」.それゆえ,「悲嘆している」と訳した.イエスの仲間たちは「出家」した人たちである.家族との離別が悲しくないと言えば,うそであろう.時として離別は死別に匹敵する.

 愛する人を亡くした「深い悲しみ」を英語で「グリーフ」(grief)という.C.S. ルイスの手記 Grief Observed を連想する.邦題は『悲しみ見つめて』.そこには,ルイスが幼い頃に経験した母親との死別と,壮年時代に経験した妻との死別によってもたらされた魂の叫びが,赤裸々に記されている.自分のこととしての死は,破壊的な威力をもつ.この手記は映画化された.字幕版は『永遠の愛に生きて』.原作は Shadowlands. 池袋の映画館で見た記憶がある.オックスフォード大学の光景が美しい.





4.2 「なぜなら,彼らこそは慰められるでしょう」

 「慰められるでしょう」は未来時称.とはいっても,あやふやなことではない.今すぐにではなくても,その時は必ず来る.来らしめなければならない.

死者を出したことのない家から芥子粒をもらってきなさい.

 子どもを亡くした母親キサー・ゴータミーと釈尊の話.[出典] 『ダンマパダ』

 (法句経)の注釈『ダンマパダ・アッタカター』

              

たとえ至福者の国の国民であっても,人はあくまでも人であり,神ではないかぎり,死別とその悲嘆を避けることはできない.しかし,遠からず慰めがある.あるべきである.悲嘆している人は慰め励ましてくれる仲間たちに取り囲まれている.


5 μακάριοι οἱ πραεῖς, ὅτι αὐτοὶ κληρονομήσουσι τὴν γῆν.

至福(・・・)←穏和な人たち.なぜなら彼らは継承するでしょう→その国土を.


5.1 「穏和な人たち」

 「穏和な」(プラーユス)の原義は,「穏やかな」「柔らかい」「優しい」.単に「穏やか」であるだけではなく「対応が柔らかい」「他者に優しい」という意味で,「穏和な人たち」と訳した.友愛にあふれる人たちである.

 オーストラリア人を連想する.以下の情報は,南アフリカ共和国のSouthen Cross Productions というプロモーション会社による,「オーストラリア人の国民性・気質「No worries」精神」である.「オーストラリア人の日常会話に頻繁に登場する言葉「No worries(ノーウォーリーズ)」.これは「You’re welcome:どういたしまして」や「No problem:大丈夫ですよ」,さらに「Do not worry about that:気にしないでください」などと同様に、幅広い意味合いで使用されているフレーズです.言語学者の研究によると,No worriesが初めて使われたのは1966年ごろ.オーストラリア人の温和や親切心といった気質,さらに仲間意識の高いオーストラリア人の国民性を表しています。生活に根づいたこの言葉から,人に対する友愛をいつでもどこでも気軽に表現するオーストラリア人の国民性をうかがい知ることができます」


5.2 「なぜなら,彼らは継承するでしょう→その国土を」

 オーストラリアは,第一次世界大戦では,イギリスと深い関係のゆえに,対ドイツ戦争に参戦した.第二次世界大戦では,連合国として対日戦争に参戦した.両方ともやむを得ずの参戦であった.日本海軍はオーストラリアのダーウィンやシドニーにまで侵略したが,オーストラリア軍は日本列島に報復しなかった.これからも,率先して世界のどこかの国との戦争を始めることはないであろう.このような国民こそ,自分たちの国土を安全に継承するであろうと,私は思う.

 ちなみに「その国土」というのは,福音書記者マタイの頭の中では,イエスの王国の国土と重ね合わされているかもしれない.

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